良い音とは何か、というのを真面目に考察する。

listen

音楽を作る人も聴く人も基本的に良い音を求める。

友人と「あれは良い音だ、これはあまり良くない音だ」、そんな風に語り合う事はとても楽しいですよね。

しかし良い音とは一体どういう音なのか?

楽しくおしゃべりする分には曖昧なままでも問題ないけど、良い音をテーマに何か論争みたいになってネガティブな雰囲気になることも散見されます。(主にネット上では激しい笑)

てことで今回は「良い音とは何か?」についてを私なりに考察してみたいと思います。

「良い」についてまず確認する。

「良い」というのは形容詞のひとつ。辞書によると…

人の行動・性質や事物の状態などが水準を超えているさま。goo国語辞書

つまり「良い」かどうか決めるという事は、ある基準に対して優れているか優れていないかを評価することだと言えます。

この「ある基準」というのが何なのかが重要なのかもしれません。

何を基準にするのか?

では「良い音」について語り合う時に、我々は一体何を基準にして考えているのでしょうか?

色々な基準があると思いますが、おおよそ2種類の基準に分けることが出来るように思います。

1:「数字」等の具体的な値で表せるような基準

例:「売上枚数」を基準とすると…Michael Jacksonのアルバム”Thriller”は”Off the Wall”よりも「良い」

2:「数字」等の具体的な値では表せないような基準

例:「私の好み」を基準とすると…Michael Jacksonのアルバム”Off the Wall”は”Thriller”よりも「良い」

前者は「定量的」、後者は「定性的」と呼ぶことも出来ます。

上記の例で察しがつくと思いますが、日常会話の中での音ないし音楽の「良し悪し」の話はほぼ100%後者の「定性的」な話題です。

そしてそこで「基準」にしているのは各々が音を聴く事で得た「感覚」なのですが、この「感覚」というものは果たして他の人と共有/比較できるものなのか?

音楽を聴くという行為は主観的な体験

自分が何か音を聞いたとき他の人も全く同じ音が聞こえていると思いますか?

一般的に音楽で和音が不協和音より好まれるし黒板を爪でひっかいた音が大抵の人にとって不快に感じるので、経験的/直感的には当然そうだと思ってしまいますが、実際のところ答えは「分からない」と言えます。

人間が五感を元に認知/体験している感覚(=Stimulus Modality)と他の人のソレが全く同じとは限らないのですね。

近年ではテレビとかで「脳科学者」さん達によってクオリアという言葉と共に紹介されている話です。

よく説明に使われる視覚分野の「色」での例えだと、あなたが赤い色として見ているものを他の人は青い色として見ているかもしれないというやつ。

音楽的な話で例を挙げると…Aさんが440hzのサイン波を聞いてラという音程で認識しているとき、となりのBさんの感覚上で聴いている音がAさんがシと認識している音程になっているかもしれない…下図参照

perception

「そんなことあるかい!」と思うかもしれないけど、上記の例では両者の認識の辻褄自体は問題なく合うので、例えBさんの頭の中で鳴っている音がAさんにとって全音上の音だとしても確かめる事が不可能。

Bさんの頭の中で鳴っている音を直接Aさんの頭に接続して再現することが出来ればAさんは自身の認識との差異を知ることが来ますが、そんな技術は今のところ存在していません。

こういった主観的体験の客観的観測は現代の技術では不可能で認知神経科学の分野で研究対象になってます。

つまり以上の例から分かることは、会話上で辻褄の合う認識をしていたとしても、それぞれの感覚上で同じような認識をしているとは限らないということです。

となると会話上でも辻褄が合わない(意見が合わない)時は、もう感覚上での認識も違っている可能性が高いように思えます。誰かにとって「良い」と感じる音でも、他の人にとってはそうではないということは多々ありえるのですね。

ということで個人各々の五感を元に感じる「主観的体験」は他人と共有することが出来きそうにありません。

そんな共有が出来ない「主観的体験」を基準した自分の評価と他人の評価は比較も出来ないように思えます。

主観的体験を元にした評価は変化するもの

個々の主観を基準にした評価(好みなど)は色々な事象の影響を受けて変化するものでもあります。

誰しも経験したことがある「子供の頃食べれなかったけど大人になって好きになった」とか「中学生の時好きだった曲を今聴いても好きじゃない」という例のように、長期的には周囲の環境や得てきた経験などで日々変化します。

さらには、短期的/瞬間的にも「認知バイアス」という働きによって主観的評価が歪められ変化してしまうことがあることも気を付けたいポイント。

色々な「認知バイアス」がありますが、一般的に馴染みのある言い回しだと先入観や偏見等もその一部です。

例えば、お皿を「野良犬の餌やりに使っていたけどキレイに洗った」(本当は新品)という情報と共に渡されたら、なんか使いたくないと思いませんか?お皿がキレイかどうかの状態に関係なく、「野良犬が使った」という情報が何となく使いたくない気分にさせますよね(ピンと来なかったら、もっとバッチイ例でも笑)

このように前もって与えられた「情報」によって受け手側の「認識」が変化するのが先入観です。

そして先入観を与える情報として具体的な「数値」は非常に有効。

音に関する話の中には「数値」が良く出てくるので注意が必要です。
(例:サンプリング周波数96kHzのハイレゾオーディオはCDよりも2倍の高さまで高音域の再現ができる等)

具体的な数値などの情報があると「定量的」つまり「科学的/客観的で他人と共有可能」というような認識になりがちですが、音の良し悪しが話題の場合の基準はあくまで「個々の主観的体験」なので数値自体に絶対的な意味は無いということが重要です。

つまり数値等の情報に主観的評価が影響される人もいれば「されない」人もいるということです。

まとめ、結論

これまで書いてきたことを振り返ってみると…

・「良い音」とはある基準よりも優れている音
・「ある基準」は2種類あって数字で表される「定量的」な基準か数字で表せない「定性的」な基準
・「良い音」を論じる時の基準は「定性的」な「個々の主観的体験」であることがほとんど
・「主観的体験」は他の人には体験できないので共有が出来ない。
・「主観的体験」を基準にした評価は変化しうる

これらをまとめてみると、「良い音」というのは個人各々の「主観的体験」を元にした評価で他人と共有が出来ずに比較も出来ない、しかもその主観的な評価は変化しうるものであるので、絶対的なものではないと言えます。

つまり結論は…

「良い音」とは自分が今まで培ってきた感覚の上で「良い」と思う音である。

長々と書いといて結局のところ、「人それぞれだよね」っていう皆知っている結論になりました笑

仮に他の人と意見が異なっていても、自分が「良い」と感じる音を正直に信じても良いのではないでしょうか?

その場の情報にすぐに惑わされないように気をつけつつ、培ってきた自分の感性を信じていきたいですね!

ただし違う意見にも対する聞く耳も大事に…

音に関する議論で気を付けたいこと…

最後に音に関する議論をする時に気を付けたいことを書いてみます。

音に関する議論…例えばスピーカーの音質、ケーブルの音質、マイクの音質、プラグインの音質、音楽の良し悪し、等などなど、、、色々ありますが何を基準に議論をしているのかを初めに意識したいですね。

「音質」とか「クオリティ」いうワードが主題である場合は「個々の主観的体験」が基準で間違いない。なぜなら「質/クオリティ」についての評価は「定性的」な評価だから。

もし当人同士の「基準としている感覚」が近いものであれば話が合いますが、程遠いものであれば全く話が合わないでしょう。

しかしながら「基準としている感覚」が違うという事実に気づかないで、同じ「基準」を持っていると思い込んでしまっているケースというのが実は多いのではないのかと思います。そして、それが「良い音」に関連するネガティブな論争の主な原因になっているのではないでしょうか?

音に関する事柄について議論する時は自分と違う感覚から得られた情報をいかに得るかを目的にすれば、不毛な争いが起きないのかもしれません。

まあ実際に複数の人間が集まって何かを決定しないといけない状況だったら難しいかもしれませんが、そういう時はもう「音の良し悪し」とかそういうのは他人に対する説得材料にしない方が良い気がします。

そして、もし自分の持っている「主観的体験」と近い感覚を持っている人がいて楽しい会話ができるのであれば、それはある意味奇跡的な事なのでそんな人物は大事にした方が良いのだろうなと思いました。

やっぱり友達は大事にしたほうがいいよね!

(終)